紙管の由来

 

はじめに

 紙管の由来をひもとく前に、紙管について説明をしておきたい。紙管とは何か。紙管とは、読んで字の如く紙のくだである。管の種類としては、鉄管のほかに鉛管、ビニール管など、管の名を付けられるものは多数ある。

 それらは、その用途によって、又性質によって重工業や軽工業など、あらゆる産業界で利用され、人々の社会生活に寄与しているのである。普通の紙管を造るのには困難な事はない、画用紙でも簡単に出来る。しかし、こんなものが産業界で商品として通用するだろうか。紙管には、現在一般紙管、紡績紙管、ファイバードラムの分野があり、その中の一般紙管では可成り長尺もの、短いものから、丸い筒の容器、その製品は数多くある。それらの製品は、需要が要求する強度、耐久力、量産といったものを克服して商品として成り立っている。今、此処で紙管製品の一つを例に取り上げてみよう。一般紙管では、巻芯といわれるものが、最も主力の製品となっている。ここでは誰もが知っている卒業証書入れを取り上げてみよう。あの円筒形状の蓋をあける時、スポッと、音を立てる容器である。あの容器には紙管製品が多い。何故なら軽いこと、値段が安い。卒業して二十年経って容器を取り出してきても原形は少しも変っていない。又、固いといってもそのはだざわりはソフトである。あの容器は紙でありながら紙の常識からは、随分と違うものである。しかし、原料は紙である。何故違うのか、原紙の研究と技術が加わっているからである。今や、紙管製品は広く産業界で、そして私達の生活の中の目に見える所、見えない所、いたる所で利用される様になったが、すべて高度な技術に支えられてのことである。紙管製品が一個の商品として、又いろんな製造工程を支える器具として縁の下の力持ち的な役割を果たす場合が多いのであるがこういった面についてもできるだけ紙管の由来の中で説明したいと思う。これで紙管の予備的な知識を多少掴んでもらえたであろうか。

 本文に入る前に紙管の製品が数多くあること、そしてそれらが高度の技術で支えられていること、そしてその技術の成長が紙管の歴史であること、あらかじめ理解して戴きたいのである。

 

紙管の由来


 紙は、二世紀の始め後漢の頃中国の蔡倫という人が発明したのだと言う。それがヨーロッパへ伝わり、フランス人、ルイ・ローベルという人が中心になって十八世紀の終りに現在の長網抄紙機と同原理の機械を完成、現在の洋紙製造業の基礎になったと云う事である。では、一般紙管はどうであろうか?。残念ながら紙管の正確な起源を探ることは出来ない。ただ私達は明治の昔、それが手捲で製造されていたのを知るのみである。これは、平捲で巻芯といわれるものである。明治の中頃から市場に出回ったもので、西陣織物や帯地等を巻きつけ両端に三越とか大丸のラベルを貼ったものであった。これらは主として、京都方面で作られ阪神地方で使用された。制作の方法は、勿論手捲であるから特別に工場があるわけではなく、各家庭で手工業として内職的に制作されたのであると思われる。ここで平捲について説明を加えておこう。平捲は平らな原紙をくるりと巻く方法で反物の巻芯についてはかなり年配の方なら反物生地の中から出てきた紙の円筒状の棒を御存じであろう。さて、製造機であるが最初に製造したのは明治時代アメリカのノールトン会社ではないかと言われている。外国の事情には余り詳ではないが当時の機械は厚さの薄い四、五枚捲程度の紙管平捲機であったと聞いている。これがすぐさま日本に輸入された記録はない。

 我が国に外国の機械が入って来たのは明治四十年頃である。大正初年、当時の東洋製紙(現本州製紙(株)淀川工場)、王子製紙(現十條製紙(株)都島工場)が自家用製紙紙管製造のため機械を輸入した事実がある。又先のアメリカ、ノールトン会社の平捲機を大阪の納谷紙器工業所が購入、シッカロールや白粉等の丸箱容器を制作したが、これはかなり後のことであった。これとは別に大正十年頃、当時の農商務省の技師が渡米した際、紙器業界発展育成のためアメリカのラングストン社からスパイラル捲機を輸入した。これが我が国におけるスパイラル捲機の始めである。

 スパイラル捲というのは、テープ状にスリットした数本の原紙をスパイラル捲機によって斜角度に巻くのである。つまり簡単にいえばテープ状の紙を昔、軍隊で巻いたゲートルの様に捲いて円筒状のものを作るのである。このスパイラル捲と平捲は現在紙管を捲くための二大捲上技術となっている。そして現在の紙管分類によればこの二つの方法で捲いた紙管を一般紙管と呼んでいる。さて、スパイラル捲機であるが、農商務省の技師がラングストン会社から輸入して、それから五十年を過ぎた今日でもスパイラル捲機をラングストンの愛称で呼んでいるが当時輸入した機械はそれを操作する技術者がおらず五、六年も農商務省の倉庫に放置されていた。正に宝の持腐れであったが、この事は平捲、スパイラル捲ともに機械は輸入されたもののまだまだ機械化は箸についたばかりで、大正年間の紙管も手捲で平捲が大勢を占めたことを証明している。


 具体的に機械化が進んだのは、昭和に入ってからのことである。まず農商務省の倉庫に放置されたスパイラル機であるが昭和のはじめ農商務省から東洋製缶(株)(缶詰缶の製造工場)に全機械を貸与するから研究するようにとの要請があった。同社では早速、技術者をアメリカから招いて技術を修得し、従来ブリキ缶であったスタンプインキの容器類を紙にかえて制作した。そしてこの技術はその後薬品、織物、箔、菓子類の容器製造にまで発展した。

 これと並行する様に平捲の機械化の気運も高まってきた。大正末期大阪の鐘淵紡績(株)の淀川工場や市居染工場、大阪染工場では、輸出織物を捲くのに芯板を使用していた。芯板というのは、中骨は薄い板で両側にボール紙を巻きつけた巾一七八ミリ、長さ八一三ミリ程度の板に仕上げたもので、当時の織物は全部これに巻かれて大陸方面に輸出され、錦織物の関西として非常に活況を呈していた。

 昭和初年頃になって芯板より木芯を使用することになった。木芯というのは、直径三センチ、長さ一〇〇センチの杉材又は松材を円形にした丸棒の事を言うのである。これで織物を巻く作業についても当時、好適な品物といわれたが、値が高くつく事と、曲り変形が多いということで間もなく中止となり、平捲の紙管を使用する様にかわってきた。ところが紙管製造は手作業のため十人かかって五百本から千本ぐらいが限度であった。注文があっても非常に能率が悪く到底大量の注文に応じ切れるものではない。やむを得ずその場は人海戦術で乗り切るものの引続く大量の受註に対しては残念ながら断るしかない状態であった。私は、この状態は放置できないと考えた。今なら即座に機械化だ、オートメーションだと、考えるはずであるのになかなかその解決方法を探し当てられなかった。私はこの解決は機械化しかないと結論を出したが日々の仕事に追われ仲々踏み切れなかった。

 私は、ひそかに機械化の研究にとりかかった。工学書を集めいろんな機械を見て回った。幸い私は工学関係の学校に学んでいたのでそういったものの吸収は早かった。而し設計の段階では金も余り掛けない様にと思ったが夢は大きかった。設計と云う事になれば簡単に出来る事ではなかった。また是が非でも作らなければならないという意欲に欠けていたのである。何時の間にやらこの設計図を机の奥深くしまい込んだ。つまり私はだんだんと自信を失いこの機械化を断念しかけたのである。その頃であった。鐘ヶ淵紡績(株)淀川工場の購買課に私と親交の深い社員がいた。ある日、同君は「注文しても思う様に品物が納まらない様では、会社の作業に差支える。自分としても責任問題であり、何とかして機械化して欲しい。」と、言ってきた。本格的にやるとなればその苦しみは大変なものである。彼は熱心にやってきた。

 私は、その熱意にほだされ再び機械の制作を決意した。是が非でも成功させねばならなかった。私は再び各方面の工学の資料を集め先生方の意見を聞いてまわった。そして今迄の考え方の欠点間違いを徐々に修正して遂に竹本式平捲機を完成させた。私が機械化を決意して長い年月が掛った。昭和五年の暮れであった。これがつまり国産紙管製造機の第一号である。誰よりも喜んでくれたのは勿論友人であり、私が世話になっていた竹林の叔父であった。今から四十年以上も昔の話である。現在の高度な性能を持つ製造機を比べれば甚だ粗末なものであった。何しろ映画もまだ弁士つき、楽隊つきが全盛でカラー映画やシネマスコープなんて夢の又夢にもなっていなかった。それでもこの平捲機によると操作が簡単で人工力の十倍の能力が上った。そのため各社からの引合いも多く、遠く新潟方面まで輸送した。当時の新聞巻取紙管の代金は先方渡しで三円五十銭であった。これは余談であったが、この昭和初期に至ってはじめて平捲機は国産第一号が誕生、スパイラル捲もラングストン製のものを日本人が操作できる様になって機械化の第一歩を踏み出すと共に織物紙管から製紙紙管、広範な丸い筒の容器の製作等々紙管発展の足掛りとなった。私はこの手工から機械化への過度期に紙管業にたずさわった幸運に恵まれ、日本人の手で製造機から製品まで機械化への黎明に微力を尽くすことが出来たことを、友人、並に先生が盛んに方に感謝しなければならない。


 中国との戦争が激しくなった昭和十四年の頃政府の命令があって金属類は、平和産業に使用せず、紙で代用できるものは総べて紙を使用することになった。例えば、粉ミルクが盛んに売れる時代であったが、容器製造の方法は天底をブリキとして其の他は紙に改めなければならなかった。薬品容器、食料品容器、煙草包装用錫箔もスチールパイプから木芯、紙へとかえられた。昭和十六年から十八年の大東亜戦争の最中の頃であった。

 大阪市東淀川区に丸八工業(株)という会社があった。急に軍の管理工場に指定され、その命令によって大急ぎでスパイラル機を設置、砲弾のケース製造を始めた。これについては次の様なエピソードがあった。ジャワ、スマトラ方面の激戦地での日本軍の砲弾は、スコール等のため湿気が入り、不発弾が多かった。ところがアメリカ軍の砲弾は防水加工した紙ケースで包装されていたから海水につけても、全部完全な砲弾であった為徹底的に攻撃された。これを見て日本軍も改めて包装の重要性を痛感し、丸八工業を主力とした各種紙管業者を動員して砲弾ケースの製作に当たらせた事実があった。その頃の紙管業界は国家的な政策が大いに利して発展したと後世の人はいうかも知れないが、機械化による需要増大が軸となった戦前の黄金時代といえる時期であった。


 戦後の昭和二十一年頃は、終戦後の混乱の時代であり、総べてが統制時代であったため、何かにつけて不自由があった。紙管業界でも原紙、副資材さえあれば幾らでも儲かる時代であったが、農林省や商工省からの原料の割当てが尠いため原紙を入手するのに大変な努力を要した。しかし需要面に於いては、農業用殺虫剤の容器や駆虫用ダスター等がブリキ容器に代わって続々製造されたため、各業者は非常に多忙であった。また同じ昭和二十一年のこと、森林伐採禁止法が制定された。この法律によれば生長三十年未満の若い立木は伐採禁止、それに加えて三十年以上の木材であっても政府の許可がない限り伐採はできなくなった。それまで特種紙用巻取に使用していた捲木芯やカーペット用の捲木芯も全部紙管に代わることとなった。また専売局の箔関係も一部も木材を使用していたが全部紙管を使用することになった。こうした事があったため、原紙を入手するには困ったが紙管業界はなかなかの活況であった。昭和二十五年朝鮮動乱が勃発した。そのため再び砲弾ケースの受注がふえ、各業者は生産に追われたが、この時代は原紙の供給について政府が協力して呉れたので、業者は順調に成長し、設備の拡大と資金の蓄積には充分な有力企業が生まれてきた。昭和二十八年から二十九年にかけては朝鮮動乱後の不況の時代であった。設備過剰に走った一部紙管業者の整理などを伝える暗いニュースもあったが、業界全体としては無難に順調に推移していた。


 昭和三十年代は開発と需要成長の時代であった。ビニール、セロファン、その他の化学製品や特種紙用の巻取紙管が開発された。また多くの産業界が紙管の必要性を認められた。しかし紙管原紙の需要からみると、その成長は三十五年以降ということがいえる。それを数字的にみると、三十五年の原紙消費量は二万二千屯代であったが、三十九年には六万七千屯と三倍になっているのである。それが四十年代に入ると驚きである。

四十二年 八万壱千四百屯
四十三年 拾壱万五千屯
四十四年 拾参万九千五百屯
四十五年 拾六万弐千参百四十七屯である。

 四十五年度の原紙消費量は、三十九年の二・五倍、三十五年度と比べれば、なんと七倍である。年間販売高も四十年代の成長は目を見張るものがある。紙管の需要成長率は四十年に入って毎年二〇%が平均であろうといわれている。ところが四十二年度にはそれを大きく上回って三〇%以上を記録、四十三年度には総売上額百弐拾億円、そして四十五年度はなんと弐百億円に達した。こういった動きを今、考えてみると三十年前半は開発の準備期間であり、それが三十年代後半に開花、四十年代はその勢いで見事大型景気に乗り切ることが出来たといえよう。


 現在の紙管業界には、はじめにも書いた様に平捲、スパイラル捲による一般紙管とは別に紡績紙管、ファイバードラムの二つの分野がある。紡績紙管の歴史は戦前からであるが、ファイバードラムについては、戦後昭和二十九年頃、アメリカやドイツの包装容器から学んで開発されたものである。紡績紙管の商品として簡単にイメージが浮ぶのは、糸をつぐむ時の糸繰りであり、糸巻きであるがそう言ったものが紙管で作られる事は戦前からであり、既に周知のことであろう。ファイバードラムは、紙管のドラム缶である。商品の需要としてみた場合、その中心を占めるのはなんといっても一般紙管である。一般紙管業者は再生紙管業者を除いて現在全国で約七十社と推定される。巻芯としての紙管が合成樹脂フィルム類、新聞紙、包装紙、ラミネート紙、トイレットペーパー、粘着テープ、ガムテープ、セロファン、フィルム、写真フィルム、アルミ箔、紡織用原糸、織物、カーテン地、カーペット等々で、容器では化学薬品、食品、洗剤、化粧品、文具、そのほかに砲弾ケース、小銃弾の薬きょう、温度及び水流方向の測定用紙管、建築用紙管等がある。

 業界の組織としては、一般紙管業者を中心に全国紙管工業組合があり四十五企業が参加している。また紡績紙管には日本紡績紙管工業組合(二十二社)参加)があり、ファイバードラムには、ファイバードラム懇話会がある。やや残念なことは、我が紙管業界は成長を続けているものの企業間に多少格差が存在することである。幸い通産省や産業各界の認識も紙管業界の成長と共に高まり、昭和四十二年中小企業近代化促進法による指定業種として認可され、また四十七年度を目標とした近代化計画もでき上り四十三年度から実施している。日本の紙管は明治以来の長い歴史の中で、磨きをかけてきたお陰で今や世界的にも最も優秀な紙管と折紙をつけられている。勿論、技術水準も世界最高である。これは需要家のきびしい要求があったためでその点については需要家さんに厚く感謝している。不思議なことは需要者の殆どが成長産業であることである。言葉を逆にすれば成長産業ほど紙管の特性を研究しその重要性を認識して呉れているわけである。七十年代の花形産業である電算機にペーパー巻芯として紙管が使用されていることは、まだ余り知る人も尠いと思うが、我が紙管の精度のよさ、強度真円度が抜群であったからこそである。現在我々は、需要者から鉄の様な紙管を作れと要求されている。我々もそれを目標に日夜、努力を続けている。製紙用の紙管は出来上ってくる紙を巻芯となって巻いていくわけであるが、現在五百キロから七百キロの紙を巻きつけても紙管はびくともしない。その圧力は相当なものであるが、それに耐える強さは紙の常識をはるかに超えたものである。もはや金属といっても言いすぎではないのである。現実に鉄管を代用する紙管もあらわれており、鉄同様の紙管が出現する日もそう遠くあるまい。

 近促法による近代化計画を実施する紙管業界は、その品質の向上によってこれまでの需要分野において、その需要拡大は充分可能である。ということは、それらの産業の成長と共に増々成長するということである。しかし未開拓の需要分野も大きいのである。それは紙管という製品が地味で目立たない面があるということ、紙管についてのPRがやや不足しているからで、その紙管のよさ、特性を未知の人々に伝えることができたならば、その成長は増々速度を加え、全日本の産業と共に、いやそれ以上に世界の紙管として名実ともに成長を遂げることはまちがいないのである。

 

あとがき

 この紙管の由来は、四十三年三月に発行したものが好評であったため、再版するに際して稿を改めたものである。

 まだまだ記録としても、記憶違いや、調査不充分の点はあるが、若し詳しくご承知の方はご指摘願いたい。将来は歴史としても、充分識者の参考なるものとしたいと考えている。又、この拙文で多少でも紙管を理解して戴ければ幸いだと思っている。

 

昭和四十六年八月二十日

竹本利治 著
全国紙管工業組合 理事長
紙管製品製造業分科会 会長
日本紙管工業株式会社 代表取締役社長